black_grass's diary

仕事のメモや情報収集など

個人介助について

  ずっと障害を持つ個人を介助をしてきた。もう20年以上になる。個人介助について書く前に、私の介助者としての活動を振り返る。

 

 最初に介助をした利用者のことはよく覚えている。まだ介助なんて言葉も利用者なんて言葉も知らなかった高校生の頃に、近所のいわゆる「重度知的障害」児と呼ばれる小学生の少年の世話を頼まれたのがきっかけだった。仮にSくんとする。Sはとても可愛らしい子どもだった。重いてんかんを患っていて、よく発作を起こしていた。発する言葉は単語のみだったし、こちらの話がどれだけ理解できているのかは計り知れなかったが、彼の一挙手一投足は感受性や表現力の豊かさが随所に感じられるものだった。感情的にも活発な子どもだった。普通学校に通い、クラスメイトに世話されたりからかわれたりしながら楽しそうに生活していた。IQや知的障害の重度軽度といった尺度などによる先天的な知能の高低に関わらず、育成過程において家族や他者が積極的に言語的非言語的コミュニケーションを図っていれば、感受性や表現力というものは備わるという事実は、後に様々な「知的障害児」と接することによって知ることとなった。家族や他者から、知的障害ゆえにコミュニケーションは不可能とされ、その経験を積めぬまま成長した知的障害児のなかには、感情的に無反応な者も多かった。

 Sの放課後の介助を頼まれるようになり、一緒に散歩をすることが多くなった。彼はバスに乗りたがり、一緒にバスで中野駅まで行ったりしていた。彼はバスの降車ボタンを押すのが好きで、帰りのバスの中、まだ彼の家の最寄りのバス停ではないのに押そうとすること、押してしまうことがよくあった。私はとくに何も考えずに手を押さえて「まだだよ」と止めたり、押してしまった場合は運転手に謝罪して取り消してもらったりしていた。つつがなく楽しく、安全に散歩が終わればいいのだと思っていた。

  しかし、私と同じようにSと散歩をしていたもうひとりの介助者(Tさんとする)はそうではなかった。Tさんは「Sくん(TさんはSをくん付けで呼んでいた)が降車ボタンを押したいと思ったのなら押せばいい。そして押した以上次のバス停で降りるべき」と考え、そう行動していた。全てにおいてそのような姿勢で介助をしていた。当時はうまく言語化できなかったが、要するに、常にSの自己選択、自己決定を待ち、その結果生じる責任をSに求めていた。私ははじめて見るその光景に、少なからずショックを受けた。私は基本的に無精者ゆえ、面倒な作業は極力簡略化し効率的に片付けたくなるたちで、Sの介助も慣れてくるに従って行動や要求をパターン化し、推測して促し、時には限定していた。なにせ相手はかわいい子どもであるし、高校生でも保護者のように振る舞うことに違和感はなかった。「介助」という概念がまるでなかった私が、私の何倍もの時間をかけ、本人の意志と権利を尊重するTさんの「介助」を目の当たりにして、はじめて介助とは何かと考えはじめることになった。Tさんには心から感謝しているし、尊敬している。Tさんは今もSくんと共に生きている。

 Sの母親(Yさんとする)は面白い方だった。芸術大学を出た方で、Sを普通学校に通わす程の行動力がある母親だった。後になってその意義を知るのだが、私がアルバイトとしてSの介助をすることを可能にしたのも彼女の行動力と交渉力の賜物だった。緊急一時保護等の制度の活用はもちろん、90年代前半の時点で中野区から委託を受けた知的障害者へのホームヘルプ事業をはじめており、私はSの介助をしていたのだと思う。確か時給1000円くらいはもらっていたのではないか。おそらく80年代から様々な要求を行政に出し、交渉し、関係を作りながら獲得したホームヘルプだったのだと思う。当時いろいろとお話してもらったのだが、はっきりいって内容をよくわかっていなかったので正確には思い出せないのだが、常に行政との間のやりとりで落胆したり絶望したり危惧したり、少し報われたり、希望を語ったりする彼女の姿は私の中に焼き付いている。行政と交渉する人間を見たのは彼女が最初だったのかもしれない、今思うと。

 Yさんは子どものために労を惜しまず非常に活動的だったが、過保護な母親ではなかった。彼女は介助者である私にSを委ね、介助について考え始めた私を介助者として尊重しつつ、知的障害児をとりまく環境や現実や、制度やシステムについても広く教えてくれた。彼女は息子以外の障害児を対象とした活動もしていたため、私は地域に暮らす他の知的障害児との交流の機会も得ることができた。彼女やSからインスパイアされ、私もいろいろと考えるようになった。いい経験をさせてもらったと、今になって痛感する。当時はそのありがたさが全然わかってなかった。本当に感謝である。

 私はそのまま大学生になり、しばらくSの介助からは遠ざかっていた。その後大学が面白くなくて中退してふらふらしていた頃、中学生になっていたSの学校での介助の仕事をしないかとYさんから誘われた。Sは小学校の頃の友達と共に地域の普通中学校に入学し、学校内では介助者をつけて生活していた。介助者は教育委員会が時給800円だか1000円だかで雇うのだが、人材は当事者が探すしかなかった。期限は半期で、確か中2前期と中3後期とかで合計二回やったような記憶がある。3年生の後期を担当したのは間違いないと思う、卒業式の記憶があるので。

 学校介助はなかなか新鮮な体験だった。二十歳すぎで、久々の中学校、しかも母校だ。懐かしかったし、数年前生徒として通っていた自分と今の自分との立場の違いが不思議だった。Sはいわゆる「重度知的障害者」なので、教科書を読んだりテストを受けたりという「勉強」に関しては他の生徒とは完全に異質で、特別扱いもあったのだが、間違いなくクラスの一員だった。小さい頃からなじみの連中なので、Sがこういうときはこうする、といった対応は私などよりよっぽどよく知っていたし、私が考えて介助するところを、もっとあたりまえに、自然にやっていた。これは介助者の介入を極力減らしたほうがよいと考え、なるべくさぼるように心がけていた。当時は福祉従事者としての自覚など微塵もなかったので、勤怠はひどいものだった。それでも学校生活はつつがなく行われ、学校と保護者との連絡帳にあるクラスメイトが「自分たちだけでSのことは全部できるのに、介助の人はなんのためにいるんだろう?」と率直な思いをなんの気なし書いていた。それを読んだ母親のYさんの感激した様子は忘れられない。幼い頃から重度知的障害者と普通に一緒に育った仲間たちは、彼の存在をあたりまえに受け入れ、介助者という存在のほうに違和感を持った。子どもは正直にそれを表明し、我が子を普通学校に通わせた母親の正しさを証明した瞬間だった。

  障害者が普通学校に通うとき、障害者をクラスになじませることができるかどうかは担任の先生、そして校長の能力とやる気にかかっている。Sの場合、介助者がいなかった小学生時代は担任や校長の影響をもろに受けていた。差別的な担任に当たると、一年間も辛い日々が続いたりもしたようで、Yさんからはいろいろな苦労話を聞いていたので、彼女が報われるのは嬉しかった。

  授業中、私があまり教室でSの横にいないで、離れた待機室にいたりするようになり、私を管理する立場の教頭から注意を受けるようになり、それでも改善がないためそのうち校長と話をすることになった。当時の校長はわりと障害児を受け入れることに理解があり、柔軟な考えをする方だったのだが、その頃の私が極端に当事者の自己決定にこだわっていたため、なかなか理解し合えなかった。極力介入したくない、必要とされるまでは手は貸したくないという私に「当事者の身に危険があるような状況でも、君はほっておくのか」「はい」「命に関わるような場合でもか」「はい、当事者が望むなら」「いや、禅問答やってんじゃないんだよ」と半ばあきれて笑っていた校長の姿を覚えている。生意気で、単純な子供だったのは間違いないし、校長先生も災難だっただろうが、そこに介助者としてのひとつの真理はあると思う。介助者は利用者のために存在するので、社会からの要請を受けても、社会の側に立ってはいけない。それは間違いなく真理であると思うのだが、当時はその確信しかなく、その真理を抱えつつ当事者と社会、環境との間の摩擦や軋轢をいかにして調整し、最大限当事者の利益を図っていくか、という実践的な介助論は持っていなかった。私のような無精で理屈っぽい人間が、複雑な言語を持たない知的障害者の介助を、学校という保護された空間で続けていると、介助に関する考え方がどんどん観念的になっていく。Sの卒業と共に私は身体障害者の介助へと進むのだが、いいタイミングだったのかもしれない。

 

つづく

 

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