black_grass's diary

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邂逅までの半生記       平井吉夫

                                       

 

 仇敵の顔は忘れない

 昨年(二〇一二)の秋、山田和明さんと五十数年ぶりに再会しました。その場に、やはり五十数年ぶりの森川(久慈)忍さんがいて、私が「久慈君!」と呼びかけて名乗ると、森川さんはびっくりして、「よく覚えていたな」と言いました。そのときの私の応答は、「仇敵の顔を忘れるもんか」

 そう、私たちは仇敵でした。それを手っとりばやく知ってもらうため、早稲田大学時代の私の政治経歴を明かしておきます。

 一九五八年 反戦学生同盟(同年五月末に社会主義学生同盟と改称)早大支部長。第一文学部学生自治会常任委員、全学協情宣部長。日本共産党入党、反党中央フラクションに参加。共産主義者同盟(ブント)結成に参画。

 一九五九年 早大メーデー実行委員長。ブント早大細胞LC。社学同全国副委員長、同東京都委員長。

 一九六〇年 一・一六岸首相渡米阻止のため羽田空港内に立て籠もって逮捕、起訴、有罪判決(懲役一年六月、執行猶予三年)。

 一九六一年 ブント分裂後、革命的共産主義者同盟全国委員会派に入党。翌年、革共同から除名。

 ことほどさように、当時の山田さんたちから見れば、どうしようもないトロツキスト、反党分子です。じつは山田さんたちも反党分子であったらしいけれど、私たちは構改派も民民派も十把ひとからげにして、ヨヨギ、スターリニストと呼んでいました。

 この仇敵同士が再会したとたん、「仇敵」が「旧敵」と字を変え、たちまち「旧友」になりました。まあ五十年も歳月が過ぎればたいていの恩讐は彼方に流れ去るものですが、旧敵になんとも言えない親しみを覚えるのは、近親憎悪の「憎悪」が消え失せると「近親」ばかりが残るからではないでしょうか。

 

 五十三年ぶりのスクラム

山田さん、森川さんと再会したのは二〇一二年一〇月一一日、脱原発を訴える人々が国会を包囲した日曜日の夕方、場所は経産省前の「テントひろば」です。ここに脱原発テントが設営されたのは二〇一一年九月のことで、はじめは四、五日もてば上々だと思っていたら、いまこの文を書いている時点で二周年を迎えました。

霞ヶ関のまんまんなかの国有地を、権力側から見ればまことに怪しげな連中が占拠して寝泊まりしているのに、こんなに長くテントが存続しているのは、強制撤去にともなう混乱が脱原発運動を激化させ、世論をいっそう喚起するのを政府がおそれたからでしょう。あれを建てたときは民主党政権時代で、経産相は枝野幸夫さんだったことが強硬手段をためらわせ、強制撤去をずるずる引き延ばしているうちに、タイミングを失ったのだと、私は推測しています。

自民党が政権に復帰した今年の三月、ついに国はテントの撤去と土地明け渡し請求訴訟を起こしました。自民党政権といえども不逞の輩の巣窟を、もはや強権で排除できなくなり、めんどうな裁判に訴えざるをえないのが面白いところです。五月二三日に行われた訴訟の第一回口頭弁論に、私は山田さん、森川さんといっしょに東京地裁に押しかけました。一九六〇年四月二六日に早稲田の集会とデモが全学連主流派(大隈銅像前)と反主流派(大隈講堂前)とに完全に分かれて以来、じつに五十三年ぶりのスクラムです。

 

黒羽さんの獅子吼

いまや脱原発を願う民意の象徴となっている経産省前のテントを建てたのは、「九条改憲阻止の会」の面々です。この団体は二〇〇六年、第一次安倍内閣が憲法九条改悪を政治日程にのせたとき、元京大ブントの小川登さんの呼びかけに応じて、東京在住の昔仲間が立ち上げたのが始まりです。発足当初の「世話人」五名のうち、三人が早稲田出身(江田忠雄、蔵田計成、平井吉夫。他の二名は東大の山田恭暉と東北大の佐藤粂吉)です。どいつもこいつも昔は札付きのトロツキストで、九条改憲阻止の会の最初の大衆行動も、六・一五樺美智子追悼国会デモというブントまるだしのもの。新聞各紙が面白がって「六〇年安保の闘士が半世紀ぶりに国会デモ」などと写真入りで報じたものでした。もっともこのときは、かつて私たちが「お焼香」と揶揄した請願デモでしたが。

こういうブント・ノスタルジーは翌年もつづきます。二〇〇七年にやった日比谷野外音楽堂での大集会も、やはり樺忌の六月一五日でした。しかし、この集会の圧巻は、癌病棟から脱けだして演壇に立った元全自連議長、黒羽純久さんの「売られた喧嘩は買うしかない」という獅子吼であったと、私は信じています。そのころにはもう「旧籍」はなんの意味もなくなっており、九条改憲阻止の会の結成まもなく、ぞろぞろ参加してきて、たちまち活動の中核を担うようになった、私たちより十年若い全共闘世代のさまざまなセクト出身の連中も、そういうシガラミは吹っ切れているようでした。

 

文句があっても「唯一の前衛党」

この七〇年全共闘世代には、私たち六〇年全学連世代とちがって、日本共産党入党の体験がほとんどありません。まあ七〇年前後にも日共=民青の学生はたくさんいましたが、こいつらの存在意義は、もはや警察機動隊の別働隊でしかなく、闘う学生集団とはまったく別物でした。これは自分の体験からくる時代錯誤の勘ちがい、というか錯覚ですが、新左翼の人たち(私はそこに、ご迷惑かもしれませんが、構造的改良派=フロントも入れています)は共産党から跳びだしたコムニストだとばかり思いこんでいたところがあり、共産党抜きでハナから新左翼諸党派に加入する七〇年前後の左翼青年に接して、戸惑いまじりの隔世の感を覚えたことがあります。

先ほど近親憎悪という言葉を使いましたが、私が山田さんたちに覚える(ときに憎悪にも転じる)近親感は、同じ古巣、日本共産党という根を同じくしていたからではないでしょうか。これはもう私たちの世代の左翼青少年にとってはどうしようもないことで、どんなに文句があっても「唯一の前衛」という共産党の金看板は厳然たるものでした。あのころ私たちは共産党のことをパルタイ、カーペー、あるいはたんにペーと呼んでいましたが、パルタイに入るか否かは革命を志向する人間として踏み絵のようなものでした。

私が入党を決意したのは一九五六年、一七歳、神戸の古い私立高校の三年生のときです。そのころ私は「うたごえ運動」に励んでいて、いっしょに歌唱指導をしていたアコーディオンのうまい党員にその決意を告げると、アコーディオン弾きは私を共産党兵庫県委員会の偉い人に会わせました。偉い人はにこやかに、「一八歳になるまで待ちなさい。それまできみのココロザシは県委員会がしっかりあずかっておく」と言ってくれたのですが、そのままナシのツブテになりました。たぶん六全協直後の混乱で、頓狂な高校生などにかまっていられなかったのでしょう。

 

たまたまの縁がつくる党派性

翌一九五七年、大学受験に失敗して一年間の浪人暮らしを東京で送りました。上京直後にたまたま反戦学生同盟(AG、アー・ジェー、anti-guerre)と縁ができ、以後ずっとAG=社学同畑を歩むことになります。この「たまたまの縁」というのは思想性と党派性を決定するバカにならない動機でありまして、これで先行きの決まってしまったウブな左翼青年を、ヨヨギもトロもふくめ、私はいっぱい知っています。

というわけで、たちまち私は、五〇年分裂以来党中央に反抗しつづけたAG色に、すっかり染まりました。早稲田大学に入って入党申請をしたとき、当時の細胞キャップだった野口武彦さんに呼びだされ、遺憾ながら党はまだAGを認めていないと忠告されたことも覚えています。

もともと私が共産党に近づいたのは、少国民時代の「鬼畜米英」が抜けきらなかったからです。これにはアメリカの軍事基地だった伊丹空港の近くに住んでいたことも強く影響しています。当時の共産党は反米民族闘争一本槍で、敗戦によって忘れられた「祖国」という言葉を頻繁に使い、「愛国者の党」を自称していました。これは大東亜戦争敗北の復讐の念に燃える右翼少年にぴったりで、当時の右翼団体がみんな親米だったこともあり、私は反米一筋で右から左へ大転換してしまい、『アカハタ』や『前衛』なんぞを読み耽るようになりました。

そんな私がAGに入ったとたん、愛唱歌が「民族独立行動隊」から「インターナショナル」に変わり、当面の目標は「民民」二段階革命から「プロ独」社会主義革命にがらりと転換するのですから、縁というのは恐ろしいものです。

 

わが内なる「うたごえ運動」

ひとつだけ弱ったことがありました。高校時代の私の実践活動は「うたごえ運動」しかなかったのですが、これをAGは「歌えや踊れのフェスティバリズム」とこきおろしていたこと。それまで崇拝していたスターリン平和賞の関鑑子さんも批判の対象になる。そもそも「うたごえ運動」は五〇年に所感派がはじめたもので、すぐそのあとにつづくのが武装闘争路線です。まさしく「衣の下の鎧」ですが、六全協で火炎瓶という鎧を脱いだあと、歌声という衣をさかんにひらひらさせたのは、共産党の変身を印象づける厚化粧のイメージ戦略だったんでしょう。所感派にさんざん痛めつけられた国際派学生の牙城AGが、これに猛反発するのはよくわかります。

よくわかるけれども、私は歌を聴くのも唱うのも大好きで、うたごえ運動に夢中になったのは、これも革命のための一手段、鎧を隠す衣という意識はあるにせよ、唱うこと自体が楽しくてしかたがなかったからです。フェスティバリズム批判は正しいと思うし、私もそれを声高に言いまくり、集会とデモ以外のところで歌を唱うのは禁欲的にひかえましたが、内なる「うたごえ」はずっとつづけ、いまもつづけています。あれこれあって革命運動から遠ざかったころ、作詞作曲をして自分で唱うなんてこともはじめました。その当時はまだシンガーソングライターという言葉がなく、私はシャンソニエと称し、ときどき銀座の画廊で発表会をやり、そのころ売り出し中の加藤登紀子さんと二人でコンサートをやったこともありました。歳をとると涙もろくなり、近ごろは合唱を聴くとパブロフの犬みたいに反射的に涙腺がゆるみ、これには閉口しています。

 

憎さも憎し懐かしし

そういう下地があるので、山田和明さんと五十数年ぶりに会ったとき、『「青年歌集」と日本のうたごえ運動』という本を近く上梓すると聞いて、私は快哉を叫びました。そのあと贈っていただいた本を読みながら、一体感にひたりました。なにしろ出てくる歌がどれもこれも、自分が百万遍も唱った歌ばかりなんですから。今年の五月二一日に開かれた出版記念会の呼びかけ人にも喜んで名を列ねました。

この記念パーティでいちばん嬉しかったのは、栗山(松本)堅太郎さんと再会できたことです。親しく歓談し、肩を組んで「インター」を唱いました。かつて栗山さんとは顔を合わせれば喧嘩をしていました。あるときの細胞総会で栗山さんが私を批判したことがあります。党の寄り合いでは名指しをするとき「同志○○」と呼ぶのが慣例で、栗山さんもはじめは「同志平井」と言ったのですが、すぐあとに「同志と呼べるかどうかわからないが」とよけいなことを言い、私は私で「てめえなんかに同志と呼ばれたくねえ」なんて悪態をついたのを覚えています。そんな栗山さん、というか松本のケンチャンに会えたことがとりわけ嬉しかったのは、川柳の「碁敵は憎さも憎し懐かしし」というやつでしょうか。

 

旧敵との共鳴

そういう碁敵同士が今年の三月五日に大隈会館で顔合わせをしました。いわゆる「全学連・全自連OB懇親会」。これを中心になって仕掛けたのは山田さんと元九大ブントの篠原浩一郎さんです。早稲田だけでなくあちこちのOBが集まり、もう碁なんぞ打たずに和気あいあいと酒を酌み交わしました。

私もこの会の呼びかけ人のひとりになったので、それを機に「早稲田の杜の会」編『60年安保と早大学生運動』(二〇〇三年刊)を精読しました。この本は刊行後まもなく元ヨヨギの中村進さんから「こんなヤクザな本をつくった」というコメント付きで贈ってもらっていたのですが、そのときはざっと目を通しただけでした。いちばん感じたのは「そうか、早稲田のヨヨギも代々木のヨヨギとのっぴきならない喧嘩をしていたんだなあ」ということですが、読んでいてときどきムカッとしたのは、いまより十年若かったからでしょうか。

今回じっくり読みなおして、われながら驚いたのは、いっこうに「ムカッ」を感じなかったことです。老いて感受性が鈍くなったのか、枯淡の境地に達したのか、それともたんなるボケなのか。いずれも当たっているところはありますが、旧敵の文集を読んでもいっこうに反感を覚えず、むしろ共感したのは、当時の自分の心意気というか、心情というか、情熱というか、客気というか、ココロザシというか、とにかく青年期の自分の心的状態が、旧敵の諸君のそういうものと重なって、共鳴するからだと思います。

 

ロクでもないしろもの「理性的認識」

そもそも若者が革命を志す動機はなんなのか。あるいは、なにが若者の心情を革命へと促し、駆りたてるのか。古典的な革命のイメージは「パンをよこせ」から始まりますね。だけど学生が革命を志向するのは腹が減ったからではないでしょう。しかもわれわれの同世代で大学に行けたのは全体の六、七パーセントで、それなりに余裕のある階層です。苦学生といえども大学へ行けなかった九割以上の同世代に比べれば恵まれています。そういう若者が世直しをめざす動機の根っこは胃袋でなく頭、あるいはハートにあり、この根っこを育んだのは感性だと思います。

そして、似たような感性をそなえた青少年が学生運動に跳びこんだ。感性からみればヨヨギもトロも同類です。それがどうしてあんなに喧嘩したのか。毛沢東に「感性的認識から理性的認識へ」という、えらく機械的な認識論のテーゼがありますね。つづめて言えば、世に対する漠然とした怒りや反抗心が、本を呼んだり偉い人の説教を聴いたりして、理路整然とした革命思想に変わるというやつ。しかしこの「理性的認識」なるものはロクでもないしろもので、行き着くところは党派性、それが同じ感性をそなえた人間同士の、しまいには血をみる喧嘩を惹き起こす。

 

共通する感性の発露

私も当時は「理性的認識」を習得した(それを当時は「理論武装」と言った。なんといやな言葉か)つもりで大喧嘩をしましたが、そのときは真理だと信じた「革命理論」の稚拙さが、この歳になるとよくわかります。あのころ早稲田のトロとヨヨギはお互いにたいそうな「理論」をひっさげて、しょっちゅう喧嘩をしましたが、つまるところ争点はストライキをやるかやらないかという、たんなる戦術問題に終始していました。私が在学中にかかわったあらゆる学生運動、平和擁護闘争でも、勤評闘争でも、警職法闘争でも、安保闘争でも、喧嘩のタネはすべてストライキをやるかやらないかで、ヨヨギの諸君は終始一貫してストライキに反対しました。

『60年安保と早大学生運動』に載っている山田和明さんの文章を読むと、じつは山田さんたちもストライキをやりたかったようですね。それが革命青年の初々しい感性というものです。それを阻んだのが「理性的認識」だったのでしょう。山田さんの手記によると、「マキャベリスト野口武彦」が「全面的授業放棄」という言葉を思いつき、それでストライキ派の元気なヨヨギを妥協させたそうですが、私たちはこれを「奴隷の言葉」と批判し、息のかかったクラスでストライキ決議を積み上げました。

その点トロのほうは感性に流されがちで、やりたい放題のところがありました。まあそれを正当化する「理性的認識」も用意していましたが、そんなものは屁理屈の大法螺にすぎないと、いまの私は考えています。

ヨヨギの諸君だって「理性的認識」のハメをはずすことがときどきありました。一九五九年の一一月二七日、国会構内に突入したときのヨヨギの諸君の喜悦と高揚感にあふれる顔を、私ははっきり覚えています。高橋建二郞さんなんか、六〇年四月二六日に、自分の属するヨヨギのつくった都自連初の独自デモをほったらかしてトロの国会前集会に駆けつけ、警察車両のバリケードを乗り越えて警官隊の頭上に飛びおり、警棒を奪い取って暴れまくったじゃないですか。

六〇年安保闘争(五九年一一月二七日~六〇年六月一五日)で逮捕・起訴された人数は通算一〇一名、重複している被告もいるので実人数は八五名、ほとんどトロの学生です。そのなかでヨヨギが気を吐いているのは六〇年六月一一日のハガチー闘争で、二六名が起訴されています。共産党社会党の幹部と労組員が多いのですが、学生も黒羽純久さんをはじめ五名います。まあこれには反米民族独立の「理性的認識」もからんでいるのでしょうが、「穏健派」のヨヨギだってときには「過激派」のトロ顔負けのことをやってのける。両者に共通する感性が、そんなところで発露するのだと私は思っています。

あのころ元気のいい若いヨヨギからこんな歌を聴いたことがあります。『ねりかんブルース』の替え歌。

 

アカハタ開けばこはいかに

きのうのデモはトロちゃん

挑発でしたと決定し

泣くに泣かれぬ顔の傷

 

私たちは六〇年安保闘争よりずっと前の五八年暮れに、さっさと共産党と袂を分かったので、そりゃあさっぱりしたものでした。ソ連や中国の悪口(あんなものは社会主義じゃない、とか。ちなみに、これを言うと、民民派も構改派もかわりなく逆上しました)も遠慮なしに言える。党中央と喧嘩しながらトロ退治の前面に立たされ、トロからはスターリニストと罵られた構改派の苦衷がしのばれます。

 

結客少年場行

いま私は福島原発行動隊というのをやっています。元東大ブントの退役エンジニア、山田恭暉さんが福島第一原発事故の直後に結成を呼びかけたもので、事故収束作業に当たる若い世代の放射能被曝を軽減するため、比較的被曝の害の少ない高齢者が現場におもむいて行動することを目的とする集団、いわば老人決死隊です。発足当初、あちこちのメディアからの取材で動機を聞かれたとき、私はいつも「義侠心」と答えました。

ひるがえってみると、若いころの私が革命を志したのも、動機は義侠心だったような気がします。これが私の感性ではないか。そう考えるとブントが任侠集団のように見えてきて、還暦を迎えた一九九九年に『任侠史伝 中国戦国時代の生と死』という本を上梓しました。版元は河出書房新社、発行日はいわくありげに六月一五日。その「あとがき」の一部を僭越ながらここに再録させていただきます。

 

任侠史伝―中国戦国時代の生と死

任侠史伝―中国戦国時代の生と死

 

 

「漢文は子供のころから好きだった。大学もそういうことを教えてくれる学科に入った。ところが時は六〇年安保闘争前夜、漢文よりもずっと面白いことが目の前にあり、講義なんぞはそっちのけ、日夜喧嘩に明け暮れた。そのころ私たちはブントという戦闘集団に結集した。旗じるしは、堕落しきった共産主義ルネサンス、労働者階級の真の前衛だが、実体は血気さかんな書生の集まりだった。

 四方八方敵にまわした大喧嘩に負けたあと、けだるい日々がつづいた。いまは笑って思い出せるが、あのころの私はしごく不機嫌だった。その不機嫌時代に、先学の諸研究をつまみ食いしながら稚拙な論文を書いた。それがこのエッセイの下敷きになっている。さきごろ死んだ父の家を処分したときに押入れから出てきたものだ。

 四十年近くたって読み返すと、ごりごりのマルクスボーイがなぜこんな場ちがいなものを書いたのか、見透かすようによくわかる。あのころ私は、それと意識することはなかったにせよ(意識するはずがない)、古代中国の任侠説話にブントをオーバーラップさせ、負けた喧嘩の始末をつけようとしたらしい。あえて気恥ずかしい言葉を使うなら、これは私の青春の総括のこころみだったのだ。

 そう思うと、若いころの気負いが妙にいとおしくなり、あつかましくも人に読んでもらいたくなった。これも老化現象だろう。もとのままでは読むにたえないので、その後の歳月に会得した知恵や手管であれこれ手を加え、語り口も年相応に書きなおした。そのぶん書生っぽい思い入れは稀薄になったが、いわばこのエッセイは、私の結客少年場行(少年の時、任侠の客と結び、遊楽の場を為し、年老いて何の功もおさめていないのに感じたことを歌った曲。〔諸橋大漢和より〕)である。」

 

 ささやかながら世直しのために

古稀を迎えたころ、大腸癌が肥大化してあちこちの内臓に癒着しているのがわかり、消化器を半分近く切除する大手術を受けました。「人斬り」と私がひそかに呼んでいる執刀医は率直に、ふつうは手術不可能だがイチかバチかやってみたいと言い、その心意気に感じて命をあずけた長時間にわたる手術から、悪運強く生還したあと、私は自宅の近くに構えていた文字どおり万巻の書庫を、思いきって処分しました。

もう私にはマルクスエンゲルスも、レーニンもトロツキーも、グラムシもトリアッティも、スターリン毛沢東も、バクーニンクロポトキンもありません。しかし若いころの私を革命へと駆りたてた感性は、枯渇しきらずに残っています。というか残っていると信じて、ささやかながら世直しのために余生を送りたい。

 

ながながとおしゃべりをしました。お耳ざわりな文言もあるかと思いますが、旧敵に紙面を割いてくださった「早稲田の杜の会」の皆さんに深く感謝します。長く著述業をつづけてきて、こんなに嬉しかった執筆依頼はめったにありません。お礼のついでに、ちょっと格好をつけて締めくくるのをお許しください。

 

槍は錆びても名は錆びぬ 昔忘れぬ落し差し

 

          (早稲田の杜の会「世代の杜 第六号」2013.12収録)

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