black_grass's diary

仕事のメモや情報収集など

両親のこと 結婚のこと 昔のブログに書いたやつ

7年ほど前に書いたブログエントリ。今より幼いが素直に書けている。

 

 両親がどのような関係を築いていて、どのような愛情表現をし、二人の間の何を大切にしていて、どれだけ深い協力関係にあったか、って恋愛観とかカップル観とか結婚観に影響すると思う。少なくとも俺はかなりそのまま受け継いでる。うちの両親は二人とも物知りで会話好きで議論も嫌いではないし知的好奇心が強い。二人とも外国語のスペシャリストだが扱う言語は全然違う。

 

 父はドイツ語の翻訳家でフリーの編集者。読書家で知識が豊富、元々専攻は東洋哲学なので漢詩仏教関連の著述や編集もしていた。それほど社交的ではないが山岳部出身で根は勤勉なタイプの体育会系。何度かヒマラヤに挑戦しつつ、日本山岳会で図書を扱う活動なんかもしている。40から合気道をはじめ、今では段位を取得し袴を履いて地元の小学生の指導をしているらしい。合気道仲間には商店街の旦那さんも多く、父がこれまで交流したことがなかったタイプの友人ができ、中野合気道連盟の物書きのおじさんとして地域における認知も得たように思う。基本的に自分が訳したい本を翻訳している模様。翻訳は何十冊も出版しているし、長年書きたかったというテーマで自著も出版したし、とても幸福な仕事人生だと思う。本人もそう思ってるはず。そもそも素直な性格のお坊ちゃんが、無駄なストレスの少ない人生を送ってるから本当におめでたい感じ。単純なことで凄くうれしそうにしてるしね。煮麺がうまいとか、湯豆腐がうまいとか。最近は憲法九条の改正に反対する活動に参加しているらしく、たまにデモなんかもしてるそうだ。そもそも学生運動で1960年に一度逮捕されたことのある前科者。しかし取り調べには完黙を貫いたと自慢げに語っているので全く反省はしていない。むしろ誇りに思っているようだ。なんというかおめでたいというかしあわせな人だと思う。歌がとても上手くて作曲もする。シャンソンとか好き。良い声だ。

 

石と笛〈1〉

石と笛〈1〉

 

 

裸の山 ナンガ・パルバート

裸の山 ナンガ・パルバート

 

 

 母はチェコ語の通訳をしている。母も学生運動には参加していたのだが逮捕されるようなことはなく、むしろその運動は勝利しないし、そもそも欺瞞的な部分もあるという認識だったらしい。オルグにも飽きてきた頃全学連チェコとの交換留学の話が舞い込み、それを聞きつけた母はチェコ行きを志願。なんと志願は母一人だったらしい。根性のない連中だよね大チャンスなのに。いずれにせよ大学卒業後母はチェコへ旅立つ。二十歳そこそこの極東の女学生がろくに言葉もわからない東欧の未知の国へ単身飛び立つのだから、さすがの母上でも不安や恐怖を感じていたのではないかと尋ねたことがある。そのときの母の答えは衝撃的だった。なんでも母は「ゆくゆくはソ連に乗り込んで社会主義の嘘を暴いてやろうと思っていた」らしい。母の父は広島の福山で紡績工場を営んでおり、地元の名士で町長にもなった人で、職人や従業員から「てゃーしょー(大将)」と慕われ恐れられていた雷親父だったそうで、そんな祖父に一番似たのが8人兄弟の5番目に生まれた母なのだそうだ。ようするに大物なのだろう。母はその後チェコに15年ほど住み、プラハの春ソ連軍の戦車に石をなげたりしたそうだ。その後日本から来た父と二人でオーストリアに移り、そこで私が生まれたそうだ。記憶はない。赤ん坊の私を連れて帰国。だから母は60年代70年代の日本を殆ど知らない。チェコ語だけでなく英語、ドイツ語、ポーランド語、ロシア語なんかも少しできるらしい。口から生まれてきたような人で凄く社交的でリーダーシップがありいつも偉そうにしている。その後は日本で育児をしていたのだが、1989年のヨーロッパ情勢にいてもたってもいられなくなり単身チェコへ飛んだ。そしてビロード革命民主化という転換を見届けた。当時母が持ち帰った「市民フォーラム」のポスターがどれもさわやかな希望に満ちた素敵なデザインだったのが印象に残っている。その後ハヴェルが大統領になり彼の自伝を翻訳した。それが初の翻訳。読み書きより喋りが得意なコミュで、同時通訳もする。

 

 

ハヴェル自伝―抵抗の半生

ハヴェル自伝―抵抗の半生

 

 

 

 そんな二人の夫婦が、朝から晩までいろいろなことをよく話している。お互いの価値観や重視するものや信ずるものについて、歴史認識について、政治について経済について文学について、ありとあらゆることを話ている。私が大きくなってからは3人で話すようになった。そういう生活なので基本的に知的関心事の多くを共有しているし、共有していない独自の知的領域についてもお互い認識し合っているので、こういうことは父に聞く、こういうことは母に聞く、という具合になる。対話を途中で放り出すことを嫌う二人なので、相違や摩擦があれば熱くなることもあるのだが、結果的に問題が明確になり、それはそれで相互理解に繋がる。合わない部分をよく理解し合っているように見える。そんな両親の元で育った私にとって、夫婦というのは最強の知的タッグチームであり、言葉を尽くして対話し続けて教養を深め合うパートナーである。それがそのまま私の今の恋愛観、カップル観に取り入れられている。最近ようやく気がついたのだが、これはあまり一般的なカップルのあり方では無い場合もあるようだ。私にとって対話は当たり前のことであり、愛し合い共に生きる二人だからこそ話し合って突き詰めなければならない重要な問題はたくさんあると思っている。人権や法や国家について、政治や歴史や文学や芸術について、語り合うべきことはいくらでもある。そうやってお互いがお互いをより深く理解することこそ愛情の表現であり、二人が他の誰よりも親密な関係を築くための唯一の方法だと思っている。何故ならそうやって愛し合って生きてきた私の両親を、とても幸福な夫婦だと感じるから。間違いなく愛し合う二人が幸福になるための鍵がそこにあるから。

父の革命運動回顧

槍 錆

邂逅までの半生記       平井吉夫

                                       

 

 仇敵の顔は忘れない

 昨年(二〇一二)の秋、山田和明さんと五十数年ぶりに再会しました。その場に、やはり五十数年ぶりの森川(久慈)忍さんがいて、私が「久慈君!」と呼びかけて名乗ると、森川さんはびっくりして、「よく覚えていたな」と言いました。そのときの私の応答は、「仇敵の顔を忘れるもんか」

 そう、私たちは仇敵でした。それを手っとりばやく知ってもらうため、早稲田大学時代の私の政治経歴を明かしておきます。

 一九五八年 反戦学生同盟(同年五月末に社会主義学生同盟と改称)早大支部長。第一文学部学生自治会常任委員、全学協情宣部長。日本共産党入党、反党中央フラクションに参加。共産主義者同盟(ブント)結成に参画。

 一九五九年 早大メーデー実行委員長。ブント早大細胞LC。社学同全国副委員長、同東京都委員長。

 一九六〇年 一・一六岸首相渡米阻止のため羽田空港内に立て籠もって逮捕、起訴、有罪判決(懲役一年六月、執行猶予三年)。

 一九六一年 ブント分裂後、革命的共産主義者同盟全国委員会派に入党。翌年、革共同から除名。

 ことほどさように、当時の山田さんたちから見れば、どうしようもないトロツキスト、反党分子です。じつは山田さんたちも反党分子であったらしいけれど、私たちは構改派も民民派も十把ひとからげにして、ヨヨギ、スターリニストと呼んでいました。

 この仇敵同士が再会したとたん、「仇敵」が「旧敵」と字を変え、たちまち「旧友」になりました。まあ五十年も歳月が過ぎればたいていの恩讐は彼方に流れ去るものですが、旧敵になんとも言えない親しみを覚えるのは、近親憎悪の「憎悪」が消え失せると「近親」ばかりが残るからではないでしょうか。

 

 五十三年ぶりのスクラム

山田さん、森川さんと再会したのは二〇一二年一〇月一一日、脱原発を訴える人々が国会を包囲した日曜日の夕方、場所は経産省前の「テントひろば」です。ここに脱原発テントが設営されたのは二〇一一年九月のことで、はじめは四、五日もてば上々だと思っていたら、いまこの文を書いている時点で二周年を迎えました。

霞ヶ関のまんまんなかの国有地を、権力側から見ればまことに怪しげな連中が占拠して寝泊まりしているのに、こんなに長くテントが存続しているのは、強制撤去にともなう混乱が脱原発運動を激化させ、世論をいっそう喚起するのを政府がおそれたからでしょう。あれを建てたときは民主党政権時代で、経産相は枝野幸夫さんだったことが強硬手段をためらわせ、強制撤去をずるずる引き延ばしているうちに、タイミングを失ったのだと、私は推測しています。

自民党が政権に復帰した今年の三月、ついに国はテントの撤去と土地明け渡し請求訴訟を起こしました。自民党政権といえども不逞の輩の巣窟を、もはや強権で排除できなくなり、めんどうな裁判に訴えざるをえないのが面白いところです。五月二三日に行われた訴訟の第一回口頭弁論に、私は山田さん、森川さんといっしょに東京地裁に押しかけました。一九六〇年四月二六日に早稲田の集会とデモが全学連主流派(大隈銅像前)と反主流派(大隈講堂前)とに完全に分かれて以来、じつに五十三年ぶりのスクラムです。

 

黒羽さんの獅子吼

いまや脱原発を願う民意の象徴となっている経産省前のテントを建てたのは、「九条改憲阻止の会」の面々です。この団体は二〇〇六年、第一次安倍内閣が憲法九条改悪を政治日程にのせたとき、元京大ブントの小川登さんの呼びかけに応じて、東京在住の昔仲間が立ち上げたのが始まりです。発足当初の「世話人」五名のうち、三人が早稲田出身(江田忠雄、蔵田計成、平井吉夫。他の二名は東大の山田恭暉と東北大の佐藤粂吉)です。どいつもこいつも昔は札付きのトロツキストで、九条改憲阻止の会の最初の大衆行動も、六・一五樺美智子追悼国会デモというブントまるだしのもの。新聞各紙が面白がって「六〇年安保の闘士が半世紀ぶりに国会デモ」などと写真入りで報じたものでした。もっともこのときは、かつて私たちが「お焼香」と揶揄した請願デモでしたが。

こういうブント・ノスタルジーは翌年もつづきます。二〇〇七年にやった日比谷野外音楽堂での大集会も、やはり樺忌の六月一五日でした。しかし、この集会の圧巻は、癌病棟から脱けだして演壇に立った元全自連議長、黒羽純久さんの「売られた喧嘩は買うしかない」という獅子吼であったと、私は信じています。そのころにはもう「旧籍」はなんの意味もなくなっており、九条改憲阻止の会の結成まもなく、ぞろぞろ参加してきて、たちまち活動の中核を担うようになった、私たちより十年若い全共闘世代のさまざまなセクト出身の連中も、そういうシガラミは吹っ切れているようでした。

 

文句があっても「唯一の前衛党」

この七〇年全共闘世代には、私たち六〇年全学連世代とちがって、日本共産党入党の体験がほとんどありません。まあ七〇年前後にも日共=民青の学生はたくさんいましたが、こいつらの存在意義は、もはや警察機動隊の別働隊でしかなく、闘う学生集団とはまったく別物でした。これは自分の体験からくる時代錯誤の勘ちがい、というか錯覚ですが、新左翼の人たち(私はそこに、ご迷惑かもしれませんが、構造的改良派=フロントも入れています)は共産党から跳びだしたコムニストだとばかり思いこんでいたところがあり、共産党抜きでハナから新左翼諸党派に加入する七〇年前後の左翼青年に接して、戸惑いまじりの隔世の感を覚えたことがあります。

先ほど近親憎悪という言葉を使いましたが、私が山田さんたちに覚える(ときに憎悪にも転じる)近親感は、同じ古巣、日本共産党という根を同じくしていたからではないでしょうか。これはもう私たちの世代の左翼青少年にとってはどうしようもないことで、どんなに文句があっても「唯一の前衛」という共産党の金看板は厳然たるものでした。あのころ私たちは共産党のことをパルタイ、カーペー、あるいはたんにペーと呼んでいましたが、パルタイに入るか否かは革命を志向する人間として踏み絵のようなものでした。

私が入党を決意したのは一九五六年、一七歳、神戸の古い私立高校の三年生のときです。そのころ私は「うたごえ運動」に励んでいて、いっしょに歌唱指導をしていたアコーディオンのうまい党員にその決意を告げると、アコーディオン弾きは私を共産党兵庫県委員会の偉い人に会わせました。偉い人はにこやかに、「一八歳になるまで待ちなさい。それまできみのココロザシは県委員会がしっかりあずかっておく」と言ってくれたのですが、そのままナシのツブテになりました。たぶん六全協直後の混乱で、頓狂な高校生などにかまっていられなかったのでしょう。

 

たまたまの縁がつくる党派性

翌一九五七年、大学受験に失敗して一年間の浪人暮らしを東京で送りました。上京直後にたまたま反戦学生同盟(AG、アー・ジェー、anti-guerre)と縁ができ、以後ずっとAG=社学同畑を歩むことになります。この「たまたまの縁」というのは思想性と党派性を決定するバカにならない動機でありまして、これで先行きの決まってしまったウブな左翼青年を、ヨヨギもトロもふくめ、私はいっぱい知っています。

というわけで、たちまち私は、五〇年分裂以来党中央に反抗しつづけたAG色に、すっかり染まりました。早稲田大学に入って入党申請をしたとき、当時の細胞キャップだった野口武彦さんに呼びだされ、遺憾ながら党はまだAGを認めていないと忠告されたことも覚えています。

もともと私が共産党に近づいたのは、少国民時代の「鬼畜米英」が抜けきらなかったからです。これにはアメリカの軍事基地だった伊丹空港の近くに住んでいたことも強く影響しています。当時の共産党は反米民族闘争一本槍で、敗戦によって忘れられた「祖国」という言葉を頻繁に使い、「愛国者の党」を自称していました。これは大東亜戦争敗北の復讐の念に燃える右翼少年にぴったりで、当時の右翼団体がみんな親米だったこともあり、私は反米一筋で右から左へ大転換してしまい、『アカハタ』や『前衛』なんぞを読み耽るようになりました。

そんな私がAGに入ったとたん、愛唱歌が「民族独立行動隊」から「インターナショナル」に変わり、当面の目標は「民民」二段階革命から「プロ独」社会主義革命にがらりと転換するのですから、縁というのは恐ろしいものです。

 

わが内なる「うたごえ運動」

ひとつだけ弱ったことがありました。高校時代の私の実践活動は「うたごえ運動」しかなかったのですが、これをAGは「歌えや踊れのフェスティバリズム」とこきおろしていたこと。それまで崇拝していたスターリン平和賞の関鑑子さんも批判の対象になる。そもそも「うたごえ運動」は五〇年に所感派がはじめたもので、すぐそのあとにつづくのが武装闘争路線です。まさしく「衣の下の鎧」ですが、六全協で火炎瓶という鎧を脱いだあと、歌声という衣をさかんにひらひらさせたのは、共産党の変身を印象づける厚化粧のイメージ戦略だったんでしょう。所感派にさんざん痛めつけられた国際派学生の牙城AGが、これに猛反発するのはよくわかります。

よくわかるけれども、私は歌を聴くのも唱うのも大好きで、うたごえ運動に夢中になったのは、これも革命のための一手段、鎧を隠す衣という意識はあるにせよ、唱うこと自体が楽しくてしかたがなかったからです。フェスティバリズム批判は正しいと思うし、私もそれを声高に言いまくり、集会とデモ以外のところで歌を唱うのは禁欲的にひかえましたが、内なる「うたごえ」はずっとつづけ、いまもつづけています。あれこれあって革命運動から遠ざかったころ、作詞作曲をして自分で唱うなんてこともはじめました。その当時はまだシンガーソングライターという言葉がなく、私はシャンソニエと称し、ときどき銀座の画廊で発表会をやり、そのころ売り出し中の加藤登紀子さんと二人でコンサートをやったこともありました。歳をとると涙もろくなり、近ごろは合唱を聴くとパブロフの犬みたいに反射的に涙腺がゆるみ、これには閉口しています。

 

憎さも憎し懐かしし

そういう下地があるので、山田和明さんと五十数年ぶりに会ったとき、『「青年歌集」と日本のうたごえ運動』という本を近く上梓すると聞いて、私は快哉を叫びました。そのあと贈っていただいた本を読みながら、一体感にひたりました。なにしろ出てくる歌がどれもこれも、自分が百万遍も唱った歌ばかりなんですから。今年の五月二一日に開かれた出版記念会の呼びかけ人にも喜んで名を列ねました。

この記念パーティでいちばん嬉しかったのは、栗山(松本)堅太郎さんと再会できたことです。親しく歓談し、肩を組んで「インター」を唱いました。かつて栗山さんとは顔を合わせれば喧嘩をしていました。あるときの細胞総会で栗山さんが私を批判したことがあります。党の寄り合いでは名指しをするとき「同志○○」と呼ぶのが慣例で、栗山さんもはじめは「同志平井」と言ったのですが、すぐあとに「同志と呼べるかどうかわからないが」とよけいなことを言い、私は私で「てめえなんかに同志と呼ばれたくねえ」なんて悪態をついたのを覚えています。そんな栗山さん、というか松本のケンチャンに会えたことがとりわけ嬉しかったのは、川柳の「碁敵は憎さも憎し懐かしし」というやつでしょうか。

 

旧敵との共鳴

そういう碁敵同士が今年の三月五日に大隈会館で顔合わせをしました。いわゆる「全学連・全自連OB懇親会」。これを中心になって仕掛けたのは山田さんと元九大ブントの篠原浩一郎さんです。早稲田だけでなくあちこちのOBが集まり、もう碁なんぞ打たずに和気あいあいと酒を酌み交わしました。

私もこの会の呼びかけ人のひとりになったので、それを機に「早稲田の杜の会」編『60年安保と早大学生運動』(二〇〇三年刊)を精読しました。この本は刊行後まもなく元ヨヨギの中村進さんから「こんなヤクザな本をつくった」というコメント付きで贈ってもらっていたのですが、そのときはざっと目を通しただけでした。いちばん感じたのは「そうか、早稲田のヨヨギも代々木のヨヨギとのっぴきならない喧嘩をしていたんだなあ」ということですが、読んでいてときどきムカッとしたのは、いまより十年若かったからでしょうか。

今回じっくり読みなおして、われながら驚いたのは、いっこうに「ムカッ」を感じなかったことです。老いて感受性が鈍くなったのか、枯淡の境地に達したのか、それともたんなるボケなのか。いずれも当たっているところはありますが、旧敵の文集を読んでもいっこうに反感を覚えず、むしろ共感したのは、当時の自分の心意気というか、心情というか、情熱というか、客気というか、ココロザシというか、とにかく青年期の自分の心的状態が、旧敵の諸君のそういうものと重なって、共鳴するからだと思います。

 

ロクでもないしろもの「理性的認識」

そもそも若者が革命を志す動機はなんなのか。あるいは、なにが若者の心情を革命へと促し、駆りたてるのか。古典的な革命のイメージは「パンをよこせ」から始まりますね。だけど学生が革命を志向するのは腹が減ったからではないでしょう。しかもわれわれの同世代で大学に行けたのは全体の六、七パーセントで、それなりに余裕のある階層です。苦学生といえども大学へ行けなかった九割以上の同世代に比べれば恵まれています。そういう若者が世直しをめざす動機の根っこは胃袋でなく頭、あるいはハートにあり、この根っこを育んだのは感性だと思います。

そして、似たような感性をそなえた青少年が学生運動に跳びこんだ。感性からみればヨヨギもトロも同類です。それがどうしてあんなに喧嘩したのか。毛沢東に「感性的認識から理性的認識へ」という、えらく機械的な認識論のテーゼがありますね。つづめて言えば、世に対する漠然とした怒りや反抗心が、本を呼んだり偉い人の説教を聴いたりして、理路整然とした革命思想に変わるというやつ。しかしこの「理性的認識」なるものはロクでもないしろもので、行き着くところは党派性、それが同じ感性をそなえた人間同士の、しまいには血をみる喧嘩を惹き起こす。

 

共通する感性の発露

私も当時は「理性的認識」を習得した(それを当時は「理論武装」と言った。なんといやな言葉か)つもりで大喧嘩をしましたが、そのときは真理だと信じた「革命理論」の稚拙さが、この歳になるとよくわかります。あのころ早稲田のトロとヨヨギはお互いにたいそうな「理論」をひっさげて、しょっちゅう喧嘩をしましたが、つまるところ争点はストライキをやるかやらないかという、たんなる戦術問題に終始していました。私が在学中にかかわったあらゆる学生運動、平和擁護闘争でも、勤評闘争でも、警職法闘争でも、安保闘争でも、喧嘩のタネはすべてストライキをやるかやらないかで、ヨヨギの諸君は終始一貫してストライキに反対しました。

『60年安保と早大学生運動』に載っている山田和明さんの文章を読むと、じつは山田さんたちもストライキをやりたかったようですね。それが革命青年の初々しい感性というものです。それを阻んだのが「理性的認識」だったのでしょう。山田さんの手記によると、「マキャベリスト野口武彦」が「全面的授業放棄」という言葉を思いつき、それでストライキ派の元気なヨヨギを妥協させたそうですが、私たちはこれを「奴隷の言葉」と批判し、息のかかったクラスでストライキ決議を積み上げました。

その点トロのほうは感性に流されがちで、やりたい放題のところがありました。まあそれを正当化する「理性的認識」も用意していましたが、そんなものは屁理屈の大法螺にすぎないと、いまの私は考えています。

ヨヨギの諸君だって「理性的認識」のハメをはずすことがときどきありました。一九五九年の一一月二七日、国会構内に突入したときのヨヨギの諸君の喜悦と高揚感にあふれる顔を、私ははっきり覚えています。高橋建二郞さんなんか、六〇年四月二六日に、自分の属するヨヨギのつくった都自連初の独自デモをほったらかしてトロの国会前集会に駆けつけ、警察車両のバリケードを乗り越えて警官隊の頭上に飛びおり、警棒を奪い取って暴れまくったじゃないですか。

六〇年安保闘争(五九年一一月二七日~六〇年六月一五日)で逮捕・起訴された人数は通算一〇一名、重複している被告もいるので実人数は八五名、ほとんどトロの学生です。そのなかでヨヨギが気を吐いているのは六〇年六月一一日のハガチー闘争で、二六名が起訴されています。共産党社会党の幹部と労組員が多いのですが、学生も黒羽純久さんをはじめ五名います。まあこれには反米民族独立の「理性的認識」もからんでいるのでしょうが、「穏健派」のヨヨギだってときには「過激派」のトロ顔負けのことをやってのける。両者に共通する感性が、そんなところで発露するのだと私は思っています。

あのころ元気のいい若いヨヨギからこんな歌を聴いたことがあります。『ねりかんブルース』の替え歌。

 

アカハタ開けばこはいかに

きのうのデモはトロちゃん

挑発でしたと決定し

泣くに泣かれぬ顔の傷

 

私たちは六〇年安保闘争よりずっと前の五八年暮れに、さっさと共産党と袂を分かったので、そりゃあさっぱりしたものでした。ソ連や中国の悪口(あんなものは社会主義じゃない、とか。ちなみに、これを言うと、民民派も構改派もかわりなく逆上しました)も遠慮なしに言える。党中央と喧嘩しながらトロ退治の前面に立たされ、トロからはスターリニストと罵られた構改派の苦衷がしのばれます。

 

結客少年場行

いま私は福島原発行動隊というのをやっています。元東大ブントの退役エンジニア、山田恭暉さんが福島第一原発事故の直後に結成を呼びかけたもので、事故収束作業に当たる若い世代の放射能被曝を軽減するため、比較的被曝の害の少ない高齢者が現場におもむいて行動することを目的とする集団、いわば老人決死隊です。発足当初、あちこちのメディアからの取材で動機を聞かれたとき、私はいつも「義侠心」と答えました。

ひるがえってみると、若いころの私が革命を志したのも、動機は義侠心だったような気がします。これが私の感性ではないか。そう考えるとブントが任侠集団のように見えてきて、還暦を迎えた一九九九年に『任侠史伝 中国戦国時代の生と死』という本を上梓しました。版元は河出書房新社、発行日はいわくありげに六月一五日。その「あとがき」の一部を僭越ながらここに再録させていただきます。

 

任侠史伝―中国戦国時代の生と死

任侠史伝―中国戦国時代の生と死

 

 

「漢文は子供のころから好きだった。大学もそういうことを教えてくれる学科に入った。ところが時は六〇年安保闘争前夜、漢文よりもずっと面白いことが目の前にあり、講義なんぞはそっちのけ、日夜喧嘩に明け暮れた。そのころ私たちはブントという戦闘集団に結集した。旗じるしは、堕落しきった共産主義ルネサンス、労働者階級の真の前衛だが、実体は血気さかんな書生の集まりだった。

 四方八方敵にまわした大喧嘩に負けたあと、けだるい日々がつづいた。いまは笑って思い出せるが、あのころの私はしごく不機嫌だった。その不機嫌時代に、先学の諸研究をつまみ食いしながら稚拙な論文を書いた。それがこのエッセイの下敷きになっている。さきごろ死んだ父の家を処分したときに押入れから出てきたものだ。

 四十年近くたって読み返すと、ごりごりのマルクスボーイがなぜこんな場ちがいなものを書いたのか、見透かすようによくわかる。あのころ私は、それと意識することはなかったにせよ(意識するはずがない)、古代中国の任侠説話にブントをオーバーラップさせ、負けた喧嘩の始末をつけようとしたらしい。あえて気恥ずかしい言葉を使うなら、これは私の青春の総括のこころみだったのだ。

 そう思うと、若いころの気負いが妙にいとおしくなり、あつかましくも人に読んでもらいたくなった。これも老化現象だろう。もとのままでは読むにたえないので、その後の歳月に会得した知恵や手管であれこれ手を加え、語り口も年相応に書きなおした。そのぶん書生っぽい思い入れは稀薄になったが、いわばこのエッセイは、私の結客少年場行(少年の時、任侠の客と結び、遊楽の場を為し、年老いて何の功もおさめていないのに感じたことを歌った曲。〔諸橋大漢和より〕)である。」

 

 ささやかながら世直しのために

古稀を迎えたころ、大腸癌が肥大化してあちこちの内臓に癒着しているのがわかり、消化器を半分近く切除する大手術を受けました。「人斬り」と私がひそかに呼んでいる執刀医は率直に、ふつうは手術不可能だがイチかバチかやってみたいと言い、その心意気に感じて命をあずけた長時間にわたる手術から、悪運強く生還したあと、私は自宅の近くに構えていた文字どおり万巻の書庫を、思いきって処分しました。

もう私にはマルクスエンゲルスも、レーニンもトロツキーも、グラムシもトリアッティも、スターリン毛沢東も、バクーニンクロポトキンもありません。しかし若いころの私を革命へと駆りたてた感性は、枯渇しきらずに残っています。というか残っていると信じて、ささやかながら世直しのために余生を送りたい。

 

ながながとおしゃべりをしました。お耳ざわりな文言もあるかと思いますが、旧敵に紙面を割いてくださった「早稲田の杜の会」の皆さんに深く感謝します。長く著述業をつづけてきて、こんなに嬉しかった執筆依頼はめったにありません。お礼のついでに、ちょっと格好をつけて締めくくるのをお許しください。

 

槍は錆びても名は錆びぬ 昔忘れぬ落し差し

 

          (早稲田の杜の会「世代の杜 第六号」2013.12収録)

わかってしまったこと

 ここしばらく久しぶりにPCでTwitter観てタイムラインのリンクたどっていろいろ読んだりしてたのね、ブログ読んだりはてなB見てみたり。まあ久しぶりに見たけど、はてなは今日も平和ですねとしか。

 

 レイシストや在得会のデモにデモぶつけてケンカ売る連中いるじゃん、カウンター。新宿で飯食ってたら新宿通りを彼らのデモが通ったり、父親が知ってたり、知り合いの極左活動家のおじちゃんが見物参加してたりと、すでに俺の生活圏内で遭遇もしてる。

 ネットではどうなってんだろうと、野間何とかさんとかbcxなんとかさんとか、まあそれしか知らないんだけど、そのへんのTwitterがらみを読んでみた。すると今や彼らは数が結構たくさんいて、やりたい放題してる。それ見てると腹が立つのね。無性に腹が立つ。むかっときて連中の頭悪いtweet晒して馬鹿にしてるときりがないくらい、ほんとバカばっかり。コアには賢い人もいるんだけど、取り巻きは全員バカ。浅はかで何も考えてないぼんくらが何十人何百人といて。で、ふと気付いた。単なる衝動の発散だと。暴力の解放、快楽追求、ようするに肉の問題なのかと。身体の欲望のおもむくままに暴れてるのかと。

 そりゃ楽しいよね。気持ちいいだろうね。にんげんだもの。人権だの差別だのって大将が唱える立派な言葉に酔ってれば、それはそれは気持ちいいだろうね。暴力をさかなに詩人の言葉に酔い、群れで踊り狂う。最高だろうね。

  そこで、わかってしまった。

 俺はずっと障害者に関わってきた。障害福祉に従事し、障害者運動に参加してきた。最近では仕事と活動を限りなく一致させるために事業もはじめた。ふと思うときがある。俺はなぜこんなことをしているのだろう。理由を挙げればきりがない。ボスに惚れてるから、尊敬すべき障害者がたくさんいるから、人権は不断の努力で守るものだから、マイノリティの生活権や生存権が守られる社会の実現のため、正しいから、イエスが言ってたから、等々。すべて偽らざる本音だ。でも、それがすべてじゃない。熱くなれる。気持ちが盛り上がる。仲間と共に正しさを確信する瞬間の高揚。たのしくてしようがない。そこに快楽があることを俺は知っている。俺は間違いなく肉の要請に答えているのだ。ある側面から見れば、俺は彼らと同じことをしているのだ。

 彼らの欺瞞の構造と同じものを自分も抱えている。だからこそ見ていて腹が立ったのだろう。なるほど合点がいった。俺も同じ穴の貉だ。

 もちろん俺は決して暴力なんて振るわない。だが、俺の仲間たちには暴力も辞さない連中もいるし、暴力で社会を動かそうとしていた伝説の活動家たちとも付き合う。俺のボスは武闘派を自称するこの世界の顔だ。今月、ある親分が東京に来てボスと飲む予定なのだが、この親分は一世を風靡した過激派組織の幹部だった頃、バスジャック事件を起こし大々的に報道された。

 しかし恐れることはない、彼らは皆身体障害者だ。彼らの振るう暴力で傷つく者はいない。彼らには殺傷能力がないからだ。前科者もいない。座り込みや不法侵入程度では警察は障害者を捕まえないからだ。それ以上の実力行使は不可能なので、彼らの暴力はより大きい暴力に抑えつけらることがなく、敗北の経験がない。だからうちのボスは還暦直前の今でも武闘派だ。障害者運動には、殺傷能力を持たない者たちの暴力革命という流れが確かにあるのだ。俺はそこが好きなのだ。よくわかった。活動に参加する肉体的理由があるのだ。

 俺は己の暴力衝動やその発散をタブーとして抑えつけ、見えないふりをしていた。だがその歪みは欲動を認めることでいくらか解消するだろう。これが俺の肉体であり、これが俺だ。開き直りまた進む。欲望と不断の努力によって。

 

 

 

潜入ルポ ヤクザの修羅場 (文春新書)

潜入ルポ ヤクザの修羅場 (文春新書)

 

 今ヤクザの本読んでるんだけど、面白いんだよね。下世話に面白い。理屈では完全に否定すべきヤクザだが興味、好奇心、ちょっとした憧れという感情は否定できない。俺がDQNってだけかもしれないけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一回介助者会議開催

 介護人派遣事業所を開設してはじめての介助者会議を開催した。「介助者会議」という言葉にピンとくる者は、この業界の人間でもベテランに限られるかもしれない。

 昔、措置制度の頃、介助者会議というのは、自立生活をする障害者とその介助者たちが集まり、介助シフトや介助の方針や介助グループの運営から財務に至るまで、およそすべてを決める会議だった。その頃はどこの自立生活者も「重度脳性麻痺者介護人派遣事業」(参考脳性麻痺者等介護人派遣事業(東京都))や緊急介護人派遣やらヘルパー券やらの制度を駆使して予算をかき集め、それを介助者に分配するという財政状況だったので、介助者会議ではシビアなカネの話も多かったはずだ。時給数十円という時代もあったらしい。東京都北部の某区では一円をどう三人で割るかという議論が白熱したこともあったそうだ。そもそも雇用契約もなく雇用主が誰なのかも曖昧な状態だったので、いざ「相性が合わないので介助をやめてほしい」と利用者が申し出た時、労働者としての介助者の権利を誰がどのように保証するかという問題が生じ、結論の出ない議論を重ねる夜もあった。

 そのようなシビアな話もある一方で介助者会議は、障害者を取り巻く政治的社会的状況分析から運動の戦略を立て、理想や夢を語り合い、明日からの自立生活、介助生活のモチベーションを高め、エンパワメントするという機能も大いに果たしていた。利用者宅で開かれる会議はそのまま会食となり飲み会となり最後はみんなで雑魚寝という流れも定番だったろう。

 しかし2003年の支援費制度開始以降、障害者は事業者と契約したサービス利用者となり、介助者は皆事業所からの派遣労働者となった。障害者は煩雑な介助グループ運営から解放され、簡単に言うと「お客さん」という立場になり、介助者たちは最低限の雇用の安定と明文化された待遇を得た。制度の導入とともに全国各地にCILをはじめとする介護人派遣事業者が次々と設立され、制度の利用は爆発的に増えた。基本的にこれらは自立生活運動によって勝ち取った成果であり、享受すべき権利であり、それ自体は喜ぶべきことであろう。しかし、人は何か得たとき、必ず何かを失う。

 事業者は組織運営の円滑化合理化のために、利用者と介助者の個人的繋がりを「トラブルの因子」として捉えるようになり、徐々に制限するようになった。自立生活障害者の介助利用に関わる事象は全て、派遣事業所の管理者やサービス提供責任者が一括、一様に管理するという流れとなる。そして障害者と介助者は連絡先の交換すら禁止されるという時代に突入し、今に至る。ここ10年の間にこの世界に入った者は、基本的にはこの時代しか知らないだろう。

 今も介助者会議を開催している自立生活者はいったい全国に何人いるだろうか。間違いなく絶滅危惧種だろう。なぜなら彼らは介助者を現行制度にはそぐわない捉え方で認識しているからだ。それを一言で言うと「仲間」という言葉になるのかもしれない。

 いつまで続けられるかはわからないが、とりあえず第二回介助者会議の日程だけは決定し、無事に第一回介助者会議は終わった。そのあとみんなで近所の公園に夜桜を見に行った。新しい出会いはある。新しい時代だって来るはずだ。

重度訪問介護従事者養成研修の指定とか

すすめる。知人の会社と協力して主催。

受講者募集開始の2ヶ月前までに事業者指定&事業指定申請書の提出が必要。

4月申請の6月か7月開催。書類はそれほど面倒じゃない。

 

事業計画的には7月には事務所借りて法人化、直ちに指定申請、9月より開業の予定、これが最短コースだけど、今年中は絶対予定通りに売掛金の回収、請求事務のミスが許されないプラン。まあ一ヶ月遅らせれば大丈夫。二ヶ月遅らせれば余裕だけど、あんまり意味ない。

 

川上健次郎さんライブ

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 昨夜は川上健次郎さんのライブを観に高円寺の無力無善寺というライブハウスに行った。高円寺と阿佐ヶ谷の間のガート下にある小さい店で、十数年前の開店直後に何度か来たことがあった。久しぶりにむげん堂の横から高円寺のガード下をタブチのあたりまで歩いて、その独特な光景と、その中でもひときわ得体のしれない無力無善寺の店構えにたじろぎつつも、懐かしい。狭くて椅子もほとんどなく、壁にはお経や難解な言葉が書かれた紙が隙間なく貼られている店内で川上健次郎さんの歌を聴いていると、だんだん以前来た頃の記憶がよみがえってきて、ああ俺はこのへんをぶらぶらしてたんだよなとあらためて実感する。あの頃僕は高円寺や阿佐ヶ谷に住んでいて、普段遊ぶ友達も仕事の仲間も皆「だめ連界隈、中野高円寺早稲田系」の人たちだったので、精神的にしんどい人たち(当時は「こころ系」の人たちって言葉を使ってた)のフリースペースだか飲み屋だかができたから行ってみようよと神長さんかなんかと一緒に遊びに来たんだと思う。なにしろ少しでも解放的な場があって、そこで誰かと交流できると聞きつけると、とりあえず足を運んでぐだぐだするというのが当時の日常だったので、無力無善寺のような世の中ではすごく特殊な店も、当時の僕には地域的にも文化的にもわりと身近なものとして位置していた。そんなことを思っていると、ああこんな人がいたなと何人もの昔の友人知人が頭に浮かんだが、今はほとんど連絡もとれないし、何人かはもうこの世にはいない。その後の十数年いろいろとあって、今自分はあの頃とは違う地域で違う仲間たちと暮らしている。でも世田谷の障害者福祉と関わる中で横山さんや上田さんやゆうじさんと知り合い、川上健次郎さんというシンガーに出会い、彼のライブが観たくて追いかけた先が高円寺の無力無善寺だったりするわけだから、きっとこの先また再び僕らは出会うだろう。
 懐かしい気持ちでライブの後に川上さんとトーク。川上さんは上京して間もない2003年頃、早稲田のライブハウスを通して「あかね」にも出入りしてたそうで、俺昔店員やったりしましたよと話すうちに、あかねを作った究極Q太郎さんだけは懐かしむだけじゃなくて本当に会いたくなって、店主である無善法師さんに消息を尋ねるもここ何年も会ってないし連絡もとれないとのこと。究極さんは金井康治さんの支援もしていた方で、僕が障害者福祉に本腰を入れるきっかけになった人でもある。感謝の気持ちを伝えたい人に会えないのは寂しい。謝りたい人にもね。
 だめ連界隈で遊んでた頃、無力無善寺が開店した頃、90年代はインターネットが普及してなくて、社会に閉塞感がすごく強くて、学校も職場も多様性がなくて、一旦ドロップアウトして孤立した人間が引きこもっていると、寂しくてつらくてこじらせてしまうという時代だった。だからだめ連界隈で交流しているとそういう場には、人付き合いが下手だけど切に人との交流を求めている人たちが集まっていた。今思うとあれは、部屋のドアを開けて外に出ないと他人との交流ができなかった時代の最後の光景だったんだと思う。
 俺はインターネットマニアなのでその後の数年は日々進歩するインターネットの世界で毎日お祭り騒ぎだった。もうひとりで家にいても寂しいとは感じない。でも、あの寂しさ、あの人恋しさ、子供の頃から抱えていたあの孤独な気持は、奥の方に隠れているだけで、いつまでも心のなかに抱えている。みんな抱えているんだと思う。川上健次郎さんの歌を聴くと、いつもそんなことを思う。来月も第3月曜日に無力無善寺でライブなので楽しみだな。同じ日に出ている敬々さんという方の歌もすごくかっこよかった。それも楽しみ。

 

 この前のゆうじ屋でのライブの動画。重度脳性麻痺の平山さんがわめくなか、平山さんの恋の詩の朗読からアンサーソングへ。すごくよかった。
川上健次郎さん ラブソング、船酔い - YouTube

 

平山さんは平山さんでバンドやってるらしい。その名も脳性麻痺号。

ゆうじ屋ライブ

 昨夜は三軒茶屋の実方裕二さんが経営するケーキ、カレー、お酒の店「ゆうじ屋」に、川上健次郎さんのライブを観に行った。
 ゆうじさんは世田谷で長年自立生活をしている重度脳性マヒの方で、普段はオリジナルのレシピで焼いたケーキを担ぎ、電動車いすで世田谷中を走り回り自ら販売している。もともとゆうじさんのレシピで介助者が作ったカレーを知り合いに販売することからはじまったという「ゆうじ屋」スタイルは今年で25年になるそうだ。店舗は来月2周年を迎える。おしゃれで居心地のいいお店で、ゆうじさんの知り合いのミュージシャンによる弾き語りライブイベントも楽しい。
 川上健次郎さんの歌に出会ったのもゆうじ屋一周年記念ライブイベントだった。音楽を言葉で説明する技術が無いのでなんと書けばよいのかわからないが、すごく気に入った。人間が抱える寂しさというか、人を求めながらも他者との一致はできないという存在ゆえの苦悩、しかしだからこそ美しく光る根源的な感情、みたいなものを、すごくバランスよく表現されているように感じ、自分の心にはすっと響いた。そういう音楽体験はあまり記憶にないものだった。
 ライブの動画をゆうじさんがfacebookにあげていたので、すぐにダウンロードして音だけリッピングしてiPhoneに入れて何度も聴いた。聴けば聴くほど好きになった。だから昨夜のライブはとても楽しみにしていた。
 ライブはとても素晴らしかった。川上さんと繋がりのある方々が聴きに来ていて、その繋がりの中での展開もあり、彼の音楽をより多様に知ることができたし、川上さんの住まいが私の近所だったこともあり、帰りの電車の中でいろいろなお話をする機会も得られ、感激でした。
 川上さんは高円寺の「無力無善寺」というライブハウスで「ヘチマ」という名前で毎月ライブをしているらしい。名前は別になんだっていいそうだ。無力無善寺は開店した頃何度か行ったことがある、高円寺らしい変な飲み屋だった。ライブのときに久々に行ってみよう、もう10年ぶりくらいなのかな。

 

夕夢 川上健次郎 by Marco on Mixcloud

 

yuujiya_top

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Screen/9313/

実方 裕二 - ゆうじ屋ライブ 川上健次郎(1/2) | Facebook

 

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